真っ白な人だった。髪の毛も、薄い目から見える瞳も真っ黒だったのに、受けた印象がとにかく白かったのだ。ラプラスは不思議な少女と出会った。そして、配信でも言えないような奇妙な体験をしたのである。
その日、ラプラスは借りている部屋の近場を散歩していた。
目的は精神的な穏やかさを手に入れることだった。なのに、アイドルってなんだろう、配信ってなんだろう、今日はアレを褒められた、こんなコメントがあった、マネージャーに返信しなきゃ、などなど、歩いていても意外と心は休まらない。
近所の大きな河川敷まできたとき、橋の下に今にも消えてしまいそうな少女が立っていた。
黒いスポーティなジャケットに細身のパンツ。髪も黒くて全身真っ黒だと遠くからでは思っていた。
しかし感じる雰囲気は真っ白で、そこが不思議な少女だった。ラプラスは思わず少女に話しかけたくなった。
身バレ対策に、普通の人間にはラプラスのことが本物の人間に見える力をしっかり使ってから話しかけようとした。
「いい天気ですね」ばかか。ラプラスは天気デッキで勝負しようとした自分に悪態をつき、言葉を抑え込む。
結果として、近づいたせいで音が鳴り、ラプラスに気づいた少女が先にラプラスへ声をかけた。
「角だ」
「角が見える感じか」
まずい、と思った。バレたと運営に連絡した方がいいのだろうか、それともまずは誰かに相談?
しかし少女は不思議そうに見るでもなく、すぐに視線を川へ戻してしまう。
「えっと、あなたは角が見えるんですよね?」
「あと尻尾」
「へ、へぇ〜。見なかったことにしてくれたらありがたい一方で、一瞬で興味失われるのもちょっとびっくりしちゃうというかなんというか」
ラプラスは焦った。この展開はあまり想定していない。会社の身バレ研修でもなかった状況だ。
「じゃあ、だれ?」
少女がラプラスに再び目を向ける。真っ黒の髪と瞳なのに、今にも消えてしまいそうな弱々しさを持っていた。
「刮目せよ……と言いたいところだが、コール&レスポンスがわかる人間では無さそうだな」
「かつもく?」
「よく見ろって意味ですね」
「見てるけど」
「そっすね……お名前は、なんか名乗るの恥ずかしくなって来ちゃったんですけど、ラプラス・ダークネスっていいます」
「ダークネス……」
初めて少女の瞳が明るく揺れた。ラプラスは配信者だ。配信業をしていると、オーディエンスの反応には敏感になってくる。少女はこっちに興味を持ったのだ。
「本名はもっともぉーっと長いんですけど、一番カッコいいところをピックアップするとラプラス・ダークネスになるっていうアレでした」
「残りはダークネス以下なんだ」
「おい黙れお前」
キレのあるツッコミに、少女が初めて笑った。
会話をしてみたくなったラプラスは、少女について聞いてみることにした。
「そちらさんのお名前は?」
「ヌル。変数が空のときに出る表示と一緒」
「あ、そちらさんも同業者さん? 配信者?」
「違う」
「じゃあ漫画家かイラストレーターとかのクリエイター?」
「違う。気づいたらここに居て、亀を眺めてるだけで、名前は勝手に自分でつけた」
「へえ。なんかいいじゃん。不思議な感じで」
ラプラスは改めて少女を観察する。たしかにまとっている雰囲気が独特で、まるでこの世にいないみたいに、ヌルからは温度を感じない。
「ヌルさんは何をしてらしたの?」
聞いてみた。
「亀を眺めてた」
そうだった。さっきそう言ってた。どうやらこの川に亀がいるらしい。
「あなたは?」
ラプラスは一瞬迷った。仕事で悩んでるのかもしれなくて、憂鬱で散歩してましたとか言いづらい。
「コーヒー片手にうたた寝でもしたいなって思って、温もりが欲しくなって歩いてたらここに。ちなみにコーヒーは飲めない」
また笑ってくれた。かわいい。
「コーヒーが飲めないのにコーヒー片手にうたた寝って」
「いいだろ別に。吾輩、宇宙人なんだよ。人間の飲み物はなんか難しいわ。コーラは許す」
「コーラはいいんだ」
「赤いコーラな。絶対赤いコーラがいいから」
また、カラカラとヌルが笑ってくれる。ささやかな充足感をラプラスは感じていた。
「で、亀ってどこにいるんだよ」
会話を続けるつもりで、相手にまつわることを聞いてみた。
「どこって、目の前に」
ヌルが人差し指を斜め上へ向ける。あまり川にいる亀を指す動作ではない。違和感をもったラプラスが指先を追ってみると、そこにはなんと巨大なリクガメがいた。バスや消防車よりははるかに大きい。
柱のような四本足でしっかり立っていて、凛然としている。伸びた首はじっとこちらを見ていた。ついさっきまでは居なかったはずだ。
「ちょ、え、えええ。なにこれー!」
思わず叫んでしまう。
「亀でしょ。リクガメ」
「いやサイズおかしいだろ!」
「やっぱりそうだよね」
「そこは自信をもてよ!」
サイズもそうだが突然現れたことにも驚く。
「でも周りの人はこの亀を気にしないみたい」
少女の言葉にラプラスは冷静さを取り戻した。確かに誰もこちらを見ない。おそらく、通行人にはラプラスの角も見えてないだろうことも改めて確認できた。やはりこの少女とリクガメは特別なのだ。
「じゃ、いっか」
ラプラスは急に落ち着いた。
「ね、いいでしょ。別に大きい亀がいるくらい」
「変だけどな。でもなんかいい気がしてきたわ」
ラプラスはヌルと一緒にリクガメを見上げる。
インパクトのせいか、少しの時間、ぼうっとしてしまった。妙に穏やかな時間だった。
どのくらいそうしてたのかわからないが、いつの間にか夕方になっていた。
風が吹いて、耳の寒さを感じて思わず目を閉じる。
「さむっ。寒くないですか……って、あれ?」
いつの間にかラプラスの目の前から巨大なリクガメは消えていて、ヌルも消えていた。
疑問はつきなかったが、そういうものなのか、とラプラスは妙に納得した。
久しぶりにあまり仕事のことを考えず、穏やかな時間を過ごせたと思ったラプラスは、なんとなくプラスメイトが喜びそうな報告でもしようという気持ちになったのだった。
その後、同じ場所にいってもヌルとは会えなかった。もちろん、リクガメとも。
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